ラーメン食べたい。

黒髪ロングの黒タイツ。

だんだん疲れる

数時間前にベッドに入り、寝ようと思っても寝れないので書いてみた。

 

高校らへんから、自分の感情とかに関して、何かすり減るものを感じる。別に全てを感情に任せて行動してきた訳でもないが、やっぱり中学ぐらいまでは喜怒哀楽に支配されて生きてきたし、その自分に疑問を持つことも少なかった。

感受性の定義って難しいけど、自分のことを客観視してみると、自分って元来の感受性は豊かな方なのだと思う。感受性が豊かだと他人の痛みっていうのをかなり主観的に捉えてしまうので、自分の精神の安寧ためにも何となく人に優しく接しようとしてた。今では擦れてしまって基本的にはゲスな人間になってしまったが、元々は人には極力優しく接したかったし、何か人が困ってることがあれば何となく寄り添ってあげたかった。今だと意味が分からないが、中学ぐらいまでは色んな人の相談事に乗っていたりもしていたものだ。最近、感動するような映画とかアニメを真面目に見れないのは、感受性に伴う主観的な痛みに耐えうる自信がなくなってるからだと思う。だから大抵の感動シーンとかは笑いながらネタにする。だから感動的なシーンより、感心できるシーンが好きだ。

ただ、人に都合が良い人というのは結構とばっちりを受けることが多い。別に自分が首を突っ込んだことなので被害者面をしていい道理はないし、単純にダサいが、優しさ(他人にとっては都合の良さ)というのは心無い人間の格好の餌なんだよね。中学の後半辺りから自分って都合がいいんだなって思うような出来事が増えて、何となく人に優しくするっていうのは危険なことなんだなって思い始めた。痛い思いも結構した。これといった大きなことというより、小さなことが少しずつ積み重なったいう感じ。しかも、優しい人間でも未熟なので、「自分は人に優しく接しそうとしてるのに、なんで他人はそうしてくれないんだろ」っていう気持ち悪い考えを押し付けたくなる衝動も出てきてしまう。こういう押し付けがましい思想って絶対にいい結果を生まないんだよね。しかもそこから生まれる悪い結果は全て自分にのしかかってくる。

そういうことに気づき始めてから、何となく色々なことに直面しても感情の振れ幅を論理の力を使ったりして、自分で制御してるようなことが増えた。常に冷静であろう、とか常に傍観者であろう、みたいな厨二病的なことを素で思うことも多くなった。色んなことに対するエネルギーもなくなったし、エネルギーが瞬発的に生まれたとしても、用心深く抑えてみることが多くなった。

でもさ、そうやって論理で自分の感情とか抑えてると、すり減るものがあるわけで。「ここで感情を昂らせてしまえば、後で痛い目見るのは自分だ」なんて考えて、それが習慣化しちゃうと、何となく有限な「何か」を消耗しているようで。だからといって感情のままに考え、行動することを許してくれるほど、世の中は優しくなくて。

生き辛いですね。

 

では、次の記事でお会いしましょう。