ラーメン食べたい。

黒髪ロングの黒タイツ。

非日常が欲しい。

大学が始まって数週間、とりわけペルソナというゲームを始めてから、高校の時にずっと考えていたことを再び考えるようになった。

「非日常が欲しい」

とりわけ受験期間初期にこのことを考えていた気がする。これは自分の人生全般に言えることなのだが、自分の人生はとにかく感動が少ない。そもそも感動って言葉が一体どれを指すのかすらあんまり分からないというのが正直なところではある。色々と衝撃を受けた体験はあるが、それはおそらく世間一般でいう感動とは違うと思うし、その衝撃的な体験が自分の人格形成や人生そのものに大きな影響を及ぼしたかと問われると更に数が限られてくる。今はそんな感動やワクワクを与えてくれる非日常がとても欲しい。

 

イギリスから帰国した時に入った小学校は本当に嫌いだった。本当に色んな人がいて、社会が本当にこんな感じだったら本当に嫌だなっていうのを痛感していた。まあ実際にもそうなんだけどね。いきなり同級生が授業中に彫刻刀を振り回しながら喧嘩しだしたり、まだ自分を守る術を今ほど知らなかった当時の自分は命の危険を感じたことが多々あった。これはかなり衝撃的な体験ではあったが、自分が望むような非日常ではなかった。最終学年になり、いわゆる「受験組」で、学校が終わったらそそくさと塾に行く自分を同級生の大半は快く思っていなかったと思う。そのせいで同級生や教師からもイヤミなことを度々言われていたし、本当に居心地が悪かったのを覚えている。友達は数人いたが、受験のストレスでほとんどの友達が嫌な奴らになっていた。変な八つ当たりみたいなことを言われたりして、もうこんな奴らいいや、って思っていたのもぼんやりと憶えている。結局小学生時代の友達とは今ではほとんど縁がないし、今どこで何をしているのかも興味がない。

中学校は東京にある私立とインターナショナルスクールに通った。この時期は人生の中では一番楽しかった時期だと思う。今でも定期的に話したり会っている友達の多くは、学校の内外問わず、この期間にできたものだ。当時は仲が良かったが、疎遠になってしまった人も多くいるし、僕のことをあんまり憶えていない人もその反面多いと思う。数ヶ月前、中学の時にリアルでもSNSでも結構喋ってた人と久しぶりに喋ったのだが、その人にとって自分は過去の人になったんだなぁって思うような会話しかできなかった覚えがある。おそらくその会話をしたこともその人は既に忘れているだろう。そんなこともあるので、世間的には友達の数は少ない方だとは思うが、今でも繋がっている人たちとの縁はこれからも大事にしたいと思っている。

高校は、ひたすらに面白くなかった。入った自分が悪いってことで割り切っていたが、それにしても何もかもが自分と合わなかった。日本で最大規模の高校生向けビジネスコンテストに優勝したりなど多くのことをしたが、今思えば少しでも学校から離れたいという欲求もあったのだろう。交友関係に関しては、同級生と先輩のわずかとしかまともに喋っていなかったと思う。よかったことといえば、彼らに会えたことぐらいかと。思い出すと陰鬱とした気分になるのであまり長くは書かないが、特定の環境に適応できないことへの苦しさが自覚としてこの時期から出てきた気がするし、今でもその感覚が尾を引いて、かなりの虚無感に襲われることがある。

こうやって思い返せば、自分の人生にも純粋に楽しいと思える期間があったし、今でも友人とくだらないことを喋ったり、本や漫画を読んだり、ゲームをしたりと楽しい時間は存在する。ただ、海外の大学に進学し比較的そのような時間も取れなくなってきた今、とても日々が退屈に感じる。そしてそんな時に思うのだ、「非日常が欲しい」と。

 

冒頭で名前を出したペルソナというゲームは正に主人公達が非日常に飛び込んで行くゲームだ。このRPGは舞台が東京で自分の生活圏外にもかなり近いところで物語が展開されていることもあり、ただのファンタジーゲームより親近感が持てる。色んなところが細かく再現されており、高校の先輩と聖地巡礼に行った時にはかなり感心した。このゲームは主人公が何かの強制的な力によって、無理やり非日常に放り出されることから物語が始まる。最初は戸惑いながら物語は進行するのだが、いつのまにかそこに人が集まり、そのままその非日常が進んで行く。そんなイベントが実はかなりの憧れなのだ。ペルソナを起動するたびに、そろそろ俺もペルソナに目覚めてほしいななんて思ったりする。(このゲームにも色々と思うことがあるので、それはクリア後に詳しく記事に書きたいと思っている)

大学は退屈すぎる。何も起こらない。人生の主人公である自分を何かワクワクするような非日常に放り投げてくれる強制的な力は存在しない。大学を卒業し、自分が思い描くキャリアプランを得たとしても、それはおそらく非日常とは相反するものであろう。折木奉太郎にとっての千反田えるも、比企ヶ谷八幡にとっての平塚先生もここにはいない。そして自分でそれを血眼になって見つけ出そうという気概もない。八方塞がりだ。親にこのことは話したら、暇なんじゃない?と笑われたことがある。確かに、処理すべきタスクが多い時はそんなことを考えないのかもしれない。ただ、そのために自分をつまらないことで不必要に忙しくするのは本末転倒である。

 

だからこそ他力本願に願う。誰か、何か、自分に非日常を与えてくれる存在はないものだろうか。今日も明日も、そんなことを考えながら、僕は眠りにつくのだろう。

 

読み直したけど、深夜テンションで感情はき散らしジャーナルと化している。

では、次の記事でお会いしましょう。