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資本主義経済、終わるらしい

最近よく資本主義経済が終わる、みたいなことを耳にする。耳にするというより、ネットで見かける。それらの記事を読む限り、競争によって利潤を追求し、その利潤(お金)によって資源が社会に分配される経済体制のことを言っているのだろう。僕の知り合いのプチ有名人もそんなことを言って起業していた。

そのような記事やFBの投稿を読む限り、

 

A: 資本主義経済に代わり、価値主義経済が生まれる

B: AI(人工知能)が人の仕事を奪い、資本主義経済を終わらせる

 

みたいに二種類の論調に分かれている気がする。ただ僕が考えでは、この二つの要因が経済の構造を少し変えることがあっても資本主義の概念を受け継いだ経済にとって代わるものには今のところなり得ないんじゃないかなって思う。なので、下にAとBに関しての僕なりの考え方を書いていきたい。興味はあるけど僕の論理展開があんまり理解できなかったり、違う意見がある人はぜひ教えて欲しい。DMやコメント、待ってます。

 

 Aについて

正直なところ、価値主義経済の定義が僕の中で断片的にしか固まっていない。ただ、価値主義経済という言葉を使い始めた界隈の大物であるメタップス・佐藤航陽氏の記事を読む限り、彼のいう価値主義経済っていうのはポスト資本主義経済の経済システムっていうほどのものでもない気がする。余談だが、メタップス社がリリースしたタイムバンクというアプリでは高校時代に小金を稼がせてもらった。ありがとうございます。

ポスト資本主義社会を考えてみた:『価値主義』と『情報経済』 | 佐藤航陽のブログ

 

彼の価値経済に関する主張を簡単にまとめると、

1. お金は価値の媒介として誕生した。

2. 歴史上の革命によって自由と平等の概念が一般的なものとなり、産業革命によって資本の有無が重要な意味を持つ経済に変わった。

3. この二つにより、もともとは価値の媒介でしかなかったお金の目的化が進んだ。

4. ITの導入によって価値の交換がお金以外のものでも行われるようになる(仮想通貨など)。又、インターネットによって生産者と消費者のマッチングが容易になる。

5. 4に示されていることにより、商品の市場においての有利性よりも、その商品の「価値」を最大化するような動きが中心になる。

6. 今実在しているお金(国が発行してるやつ)から「価値」に人々の注目が集まり、お金を追い求める経済体制ではなくなる。さらにお金に換算されてこなかったものが重要視される。これが価値主義経済である。

 

と、こんなものである。では、この流れに沿って僕の考えを述べていく。

 

1~3の論理展開に関しては異論はない。この手の主張はこの記事特有のものでもないし、今の資本主義経済に苦言を呈す人が一定数存在するのはこのような背景があるからである。金融市場を利用してお金を稼ぐ人が「悪」として批判されるのはこのような流れがあるからだろう。リーマンショックにおけるサブプライムローン問題なんて、お金の目的化が実体経済に悪影響を及ぼした最たる例である。しかしながら4以降の論理展開は少し飛躍していると思う。

4~5においては、決済の手段が多様化され、市場のマッチングが効率化されるということが主張されている。記事内で例として挙げているスーパーや卸売の例は分かりやすい。市場のマッチングが効率化されたことにより、売り方ではなく商品の質(記事内でいう「価値」)が今までよりも重要視されるという考え方も間違ってはいないと思う。しかし、次に6を見てみると、論理が飛躍している。

6においては、4~5において示された「価値」に注目が集まるという流れにより「資本」を代表するお金を追い求める経済体制ではなくなるというのが一つ目の主張である。これは正しく論理展開が為されていない。そもそも商品やサービス「価値」に注目が集まる理由として、佐藤氏は

a: 決済手段の多様化により、政府発行のお金だけが使われることがなくなる

b: 生産者と消費者のマッチングが容易になる

の二つを挙げた。しかし、この二つは「お金を追い求める経済体制ではなくなる」という結果には結びつかない。aにおいては、例として、

 

"それが国が発行する通貨なのか、企業が発行するポイントなのか、ビットコインのような暗号通貨なのか、はたまた価値の直接交換なのかは人によって違うでしょう。"

 

と述べられている。まず、「価値の直接交換」はほとんどの物に当てはまらない。当てはまらないからこそ、流動性のある貨幣というものを人間が生み出したのだから。仮想通貨などの例に関しても、価値の裏付けには実際のお金が使われているという点に留意しなければいけない。つまり、佐藤氏が例として挙げている「多様化された手段」の根源的な価値は政府発行のお金と連動しているのだ。だからこそ、仮想通貨などの決算手段が主流になっても、その価値を裏付けしているお金の重要性は衰えない、ゆえに「お金を追い求める経済体制ではなくなる」というのはまた別の話だと思う。お金の重要性が衰えない以上、お金を最大化する努力を社会の住人がやめることはないだろう。bにおいても、この結果は変わらない。いくら市場がインターネットによって効率化されて、商品やサービスの質や差別化(ここでいう「価値」)が重要となったとしても、その「価値」はお金によって裏付けされた決済手段によって取引されるため、結局お金の重要性というのは衰えない。むしろこれは資本主義的な経済を円滑に機能される要因とすら思える。

二つ目の主張である「お金に換算されてこなかったものが重要視される」という点も、今までの経済体制に含まれる要素と違うものだとは到底思えない。記事内では、Facebookが持つソーシャルグラフGoogleが持つ大量の情報には価値があるのに資本主義経済ではそれがないがしろにされているといった旨の主張が為されている。そもそもこれは時価総額というバリュエーションが存在する以上、ないがしろにされているとは思えない。更に記事内ではFacebookGoogleが持つ「価値」をソーシャルグラフや情報が生む収益によって裏付けしている。これって今の資本主義経済における物事のバリュエーション(この場合においては企業のバリュエーション)と何が違うのか全く分からない。

 

Aだけでもだいぶ長くなってしまった。要は何が言いたいのかというと、今一部の界隈で囁かれている、価値主義経済という考えが資本主義経済に取って代わるという論調に論理性を見出せないということである。IT技術やインターネットの発達により市場がもう少し効率化されるかもしれない、というのが関の山だろう。

 

 Bについて

AIが人の仕事を奪い、資本主義経済を終わらせるという話はいろんなところで耳にする。しかし僕が考える限り、話はここまで簡単ではないと思う。

そもそも経済とは、有限である資源を人々に分配する仕組みである。このような考えに基づくならば、

 

AIが人の仕事を奪う

労働する必要がなくなり、資本主義経済が終わる

 

という論調に素直には賛同できない。

最初の「AIが人の仕事を奪う」に関してはあまり異論がない。今ある全ての職がなくなるか否かというシンギュラリティに関する議論はまた別にあるが、自動化するのが簡単な職種の多くは淘汰されていくだろう。ただ、上に述べた通り、経済というものは資源を分配する必要がある限り存在する。経済システムには色んな種類があり、資本主義経済はそのうちの一つだ。そこで僕は、例えAIが今ある労働を全て請け負うことになったとしても、資本主義経済の考えは消えないのではないか思う。

まず、AIによって人間が働かなくても良くなった未来というのを想像してみよう。人間は生きるためのツール(衣食住や医療)、それに加えて娯楽というものを欲しがる。今経済に流通しているサービスのほとんどはこれらに関連するものか、これらを得るために必要な「お金」自体を増やすものである。今までの経済はこのようなサービスを人間自らが提供し、消費者から流動性を持った「価値」そのものになるお金を受け取っていて、そのお金が経済における資源分配の指標であったのだ。これがいわゆる労働に対して対価をもらうという行為である。しかし、AIが発達し人間自らがこのようなサービスを提供することがなくなった場合は、また新たな資源分配におけるルールが必要となる。そして僕は、このルールが結局のところ資本主義経済に似たものになると思う。

このルールというものは、究極的には人間に序列がつけられれば何でもいいのである。序列がつけば、それ通りに限られた資源を分配していけばいい。上にも述べたが、貨幣の所有量が現在の経済での資源分配の序列であり、指標である。

これの概念的な考えとしては

1. 資源分配の指標のため、人々の間に平和的に序列を付ける競争ルールを設定する

2. 自分に資源が多く行きわたるよう、人間は1にて定められた競争ルールにおいて優位に立とうとする。

3. 優位に立つため、競争ルールの知識を学び、鍛錬を行う。

4. あらら、これって労働じゃないですか?

 

例えば、この序列を付けるルールをポーカーに設定したとしよう。突拍子もない発想に思えるが、先ほども述べた通り、このルールは人に序列が付きさえすればなんでもよい。このポーカーで経済における序列が決まる際、人間は現在と同じく自分になるべく資源が行きわたるように高い順位に位置しようとするだろう。そうするとどうだろうか?人間はポーカーで強くなるためにポーカーの知識を付け、ポーカーの鍛錬をするだろう。そのような努力を楽しめる人もそうでない人も、才能がある人もない人もいるだろう。

 

このように考えると、労働の概念が変わっただけで、最早このような努力は、現代の労働に近いものになると言っても過言ではない。

 

このような状況に陥らないためには、二つの条件がある。

 

1. そもそも資源が有限であると言う前提が無くなれば良い。要は、資源を無限に増やせればよい。

2. 人口を極端に減らし、資源を相対的に無限大とすればよい。

 

そもそも資源は有限である、という前提から始まっているのだからこの前提を崩すしかない。しかしこれがなくならない限り、労働の中身が変わっても資本主義経済というシステムは壊れない。よって、AIが人間に代わって仕事をする→資本主義経済が終わるという論理展開は少し短絡的ではないだろうか、というのが僕の主張である。

 

最後に

 思った以上に長い記事になってしまった。日本語も概念的説明も下手なので許して欲しい。このような話題の記事を読んでくれる人は限られてくるだろうけど、もし興味があるなら読んで感想を聞かせてもらいたい。勘違いしないでもらいたいのだが、この記事は決して資本主義経済を礼讃している訳ではない。むしろ社会に出たくない僕としては、極めて厄介な経済体制だなと思っている。一生寝て暮らしたい。例え寝てなかったとしても、ゆるキャン△みたいな日常を過ごしたい。

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 どうやら二期の制作が決定したらしい。心で号泣しました。こんな記事よりそっちの方が大事です。りんちゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん。嬉しくて嬉しくて...。

 

では、次の記事でお会いしましょう。