ラーメン食べたい。

黒髪ロングの黒タイツ。

今期アニメの感想(2018年秋)

だいぶ留学先が寒くなってきた。外に出たくないからだいたい部屋の中で生活が完結している今日この頃。あと、今日で19レベルの人間になってしまった。時が経つのは早いもので。

中学の頃みたいによくアニメを見るようになったから今期アニメの現時点での感想を書いてみようと思う。全部は見ていないので、ここにないやつは一話で切ったか、見てはいるもののあまり感想がない作品。一応2クールのやつとかで前期始まりのアニメも含まれてるよ。

では、参りましょう。

 

1. ソードアート・オンライン アリシゼーション

sao-alicization.net

まずはSAO。原作、めっちゃ好き。今でも家族とのスキー旅行の最中に必死に時間見つけて読んでたのを思い出す。今回アニメ化されたのはアリシゼーション編というSAO史上一番長いお話。その長いお話に合わせて4クールでやるらしい。ここから一年中SAOが見れるってことで歓喜しているオタクも多いことだと思う。でも僕はというと、少し冷めた見方をしていたりする。実は僕、アリシゼーション編が好きじゃなくてSAOの原作読まなくなっちゃったんだよね。理由としては以下の二つ:

 

1. キリト以外の主要キャラが長い間ほとんど出てこない。

2. キリトが共に戦ってる人達がAIだということが最序盤で説明される。

 

1に関しては、発売当初は今までの原作ファンから悲しみの感想が相当出ていた印象。基本的にアリシゼーションのキャラクター達は好きでも嫌いでもない人にとっては読み進めても面白くなかったと思う。一応後に出てくるっていうのは読むのをやめた数年後に聞いたけど、今更だなって思ってた。

2に関しては僕だけかもしれない。キリトが必死に共闘したり、時には助けたり助けられたりしているキャラがAIだっていうのを最初に知って、何だか冷めてしまったのだ。まあフィクションなんて最初から存在しないって言われたらそれまでなんだけど...。この感覚、分かってほしい。

 

そんなSAOも新章が始まったらしい。その新章も時系列的にはこの章の後から始まるわけで、取り残されないようにアニメだけは見てから新章を読もうかなというのが今のモチベ。

 

2. とある魔術の禁書目録 三期

toaru-project.com

SAO、とあるが同時にアニメ化するって多分ラノベ原作界の最後の手段だよね。何となく、ラノベっていうコンテンツの終焉を見ている気分。ついに俺ガイルも最後に向けて動き出したし、本当に全部が終わりそうな気配。それはさておいて、インデックス三期。一応新約まで読んでいる身からしたら(インデックスは旧約と新約に分かれており、今のアニメはまだ旧約の中盤)やっとここから面白くなるって感じ。1期と2期は大雑把に言うと、科学と魔術サイドがあって、この二つの勢力が怖そうな人たちの怖そうな陰謀によって時々接触しているよっていう導入。クッソ長い導入なので、正直そこまで評価が高くないのも残念ながら頷ける。導入が終わったここからロシア編までは本当に面白い。今見ている人は期待していてほしい。基本的には原作に忠実にアニメ化されてるから満足なのだが、幻想殺しの発動音が放屁っぽいのはどうにかしてほしい。

設定がややこしい(自分も完全理解していなかったし、全然覚えてない)けど、この作品にはそれを誤魔化してしまう勢いがあると思う。

 

3. 寄宿舎学校のジュリエット

www.juliet-anime.com

漫画原作のアニメ。寄宿舎の学校内で寮に分かれて延々に争ってるアニメ。主人公とメインヒロインは別々の寮の人間ながらも恋人という関係。そんな関係から生まれる日々のゴタゴタを描いている。なんだろう、僕はこの漫画とアニメを面白いと思ったことがない。面白いと思ったことがないけど、漫画は全巻読んだしアニメも欠かさず見ている。なんでだろう、マジで分からない。

絵はめっちゃ綺麗だし、好きな人は好きな作品だと思う。僕は好きじゃない。これからも欠かさず見るけど。

 

4. SSSS.GRIDMAN

gridman.net

これが今期のダークホース。このアニメは一話で切ってしまった人と、二話まで進んだ人で相当感想が違うと思う。僕もFPSのクランのオタクと一緒に一話を見た時は「意味がわからない描写がやたらと多いし、ウルトラマンみたいでダサい」と二人で同じような感想を持っていた。その後惰性で二話も見たのだが、そこで180度印象が変わった。これは見てもらえばすぐ分かるのだが、二話では一話で起こった「事件」の真犯人らしき人物の正体が明かされる。この話、主人公達の視点だけでは正直訳がわからないのだ(これが第一話)。そこで二話以降で真犯人の正体を明かし、主人公達の視点と同じぐらいの比重で真犯人の視点を入れ込むことにより、何となくこの作品がどこに向かいたいのかが見えてくる。そんな構成が非常に上手いと思った作品だ。OPやEDの映像でも未だに隠されているこの作品の世界観の断片が巧妙に散りばめられている。本編を見ながら、この描写ってどういう意味なんだろう?って考えてしまうことが非常に多い。その他、登場人物の心情を色々なモチーフで表していたり、同じ話を何回見ても新たなことに気づくのでとても楽しい。

あと、ヒロイン二人がとても可愛い。僕は新条アカネが好き。

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5. 青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない

ao-buta.com

所謂青ブタってやつですね。ラノベ原作で、僕もタイトル自体は何年も前から知っていた。原作のファンが根強い作品で、twitterで多くの人がアニメ化で喜んでいるのを見た。僕の友達にも何人かファンがいて、結構盛り上がっていたみたい。

思春期症候群という思春期の若者特有の病気(?)のようなものがテーマな作品。ヒロイン達が各人物毎の症状を患っていて、主人公が色んな出来事を通してそれを解決していく物語。ちょっと気怠げで皮肉屋っぽい主人公はオタクにウケそう。どうやらこの主人公も思春期症候群を患っているかのような描写が見受けられるが、それはまだ詳しくは明かされていない。物語の構成は西尾維新物語シリーズから独特の語りを消して、もうちょっとラノベっぽくしたっていう感じかな。物語シリーズよりヒロイン達は可愛い。一人目のヒロインの話が3話で終わるのだが、ここがこの作品の一つ目の山場。クールな感じの主人公が冷静に、しかし確固たる意志を持って社会のどうしようもない部分と向き合い、戦おうとする展開は結構好きだった。それを最後に行動として起こすシーンは少し見てて恥ずかしかったが、まあ納得はした。恋愛に関してアツい「何か」を心に秘めているオタクはこのシーンは好きかもしれない。僕は無情熱オタクなので早送りで見ましたが。

 

6. やがて君になる

yagakimi.com

今期の百合アニメ。見てて、終始「あら〜^^」って言ってしまうようなアニメ。百合アニメにしては展開は遅めで心理描写がかなり細かい。桜trickみたいに初っ端からキスしまくりでぶっ放してくるのもいいけど、こういう真面目で(?)少し切なさがある百合も悪くないと思う。絵は個人的にイマイチなのだが、見ているうちに何となく癖になってしまう。

 

7. ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風

jojo-animation.com

名作と言われるジョジョシリーズでも特に人気な章。原作は読んだことないけど、このブログにもよくコメントしてくれている友達の勧めで見ている。今のところ、普通に面白いなといった印象。ジョジョって聞くとオラオラ系のストーリーを思い浮かべていたのだが、意外にも戦闘を含めた話の流れが丁寧で知的。過去の章をちゃんと知ってから見るべきだったかも、というのが唯一の残念な点。これはよく言われている感想だが、この作品独特の絵は見る度に癖になってくる。

 

8. バキ

baki-anime.jp

漫画原作の格闘アニメ。アツい、とにかくアツい。厳密では今期のアニメではなく、今2クール目が始まったというところ。最初の数話でハマってしまい、わざわざ夏休み中に友達のオタクとネットカフェに行って原作を読んでいた。今回アニメ化されている部分は原作では二部目に該当するのだが、一部目を読んでいなくても全然楽しめる。もしアニメが好きならば、是非とも原作も読んでいただきたい。

僕がこの漫画で一番好きなキャラクターは、神心会流空手の創始者愚地独歩

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この作品の中でもかなりの努力家で、勝利の栄光も敗北の屈辱も経験しながら空手の腕も磨いてきたカッコいいおっさん。彼の口から時折飛び出す名言は彼の人生の深さを表しているかのよう。ドリアンに腕も切られながらも貫手もブチかましたシーンはマジでカッコいい。

 

と、こんな感じ。あくまでも現時点での感想なので変わる可能性もアリ。

 

それでは、次の記事でお会いしましょう。

だんだん疲れる

数時間前にベッドに入り、寝ようと思っても寝れないので書いてみた。

 

高校らへんから、自分の感情とかに関して、何かすり減るものを感じる。別に全てを感情に任せて行動してきた訳でもないが、やっぱり中学ぐらいまでは喜怒哀楽に支配されて生きてきたし、その自分に疑問を持つことも少なかった。

感受性の定義って難しいけど、自分のことを客観視してみると、自分って元来の感受性は豊かな方なのだと思う。感受性が豊かだと他人の痛みっていうのをかなり主観的に捉えてしまうので、自分の精神の安寧ためにも何となく人に優しく接しようとしてた。今では擦れてしまって基本的にはゲスな人間になってしまったが、元々は人には極力優しく接したかったし、何か人が困ってることがあれば何となく寄り添ってあげたかった。今だと意味が分からないが、中学ぐらいまでは色んな人の相談事に乗っていたりもしていたものだ。最近、感動するような映画とかアニメを真面目に見れないのは、感受性に伴う主観的な痛みに耐えうる自信がなくなってるからだと思う。だから大抵の感動シーンとかは笑いながらネタにする。だから感動的なシーンより、感心できるシーンが好きだ。

ただ、人に都合が良い人というのは結構とばっちりを受けることが多い。別に自分が首を突っ込んだことなので被害者面をしていい道理はないし、単純にダサいが、優しさ(他人にとっては都合の良さ)というのは心無い人間の格好の餌なんだよね。中学の後半辺りから自分って都合がいいんだなって思うような出来事が増えて、何となく人に優しくするっていうのは危険なことなんだなって思い始めた。痛い思いも結構した。これといった大きなことというより、小さなことが少しずつ積み重なったいう感じ。しかも、優しい人間でも未熟なので、「自分は人に優しく接しそうとしてるのに、なんで他人はそうしてくれないんだろ」っていう気持ち悪い考えを押し付けたくなる衝動も出てきてしまう。こういう押し付けがましい思想って絶対にいい結果を生まないんだよね。しかもそこから生まれる悪い結果は全て自分にのしかかってくる。

そういうことに気づき始めてから、何となく色々なことに直面しても感情の振れ幅を論理の力を使ったりして、自分で制御してるようなことが増えた。常に冷静であろう、とか常に傍観者であろう、みたいな厨二病的なことを素で思うことも多くなった。色んなことに対するエネルギーもなくなったし、エネルギーが瞬発的に生まれたとしても、用心深く抑えてみることが多くなった。

でもさ、そうやって論理で自分の感情とか抑えてると、すり減るものがあるわけで。「ここで感情を昂らせてしまえば、後で痛い目見るのは自分だ」なんて考えて、それが習慣化しちゃうと、何となく有限な「何か」を消耗しているようで。だからといって感情のままに考え、行動することを許してくれるほど、世の中は優しくなくて。

生き辛いですね。

 

では、次の記事でお会いしましょう。

ペルソナ5の感想

ついに、ついに、

 

ペルソナ5というゲームをクリアした。夏休みの終盤からコツコツやっていて、大体90時間ぐらいでクリアできた。RPGイナズマイレブン以来だった自分にとってはかなりボリューミーな作品だった。この記事にはこのゲームの感想を書こうと思う。

ネタバレしまくりなので、これからプレイしようと思っている人はここで読むのをやめましょう。

 

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ペルソナ5とは

persona5.jp

短く説明するのは結構大変なので、ここは公式ウェブサイトを見てもらった方が良いかもしれない。あえていうならば、学生と怪盗団を掛け持ちする主人公たちのRPGといったところだろうか。舞台は東京なので東京出身の自分には見慣れた光景がゲームの中では広がっていた。

 

・ストーリー

とても良かった。前々からペルソナはとにかくストーリーが良いということを聞いていたが、クリア後もこの評価は全くもって間違っていないと思える。僕がストーリーを気に入った理由は以下の三点である:

 

1. 時間軸を変えながらのストーリー展開、そして起死回生のトリック

ペルソナ5のストーリー自体はかなり中途半端な場面から始まる。怪盗団のリーダーである主人公が異世界なのか現実なのかあやふやな場所で現実の警察に捕縛され、尋問を受けるところ(全体的な物語の中では終盤に近い時期の出来事)から始まるのだ。

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この際、新島冴(通称どうなのおばさん)から主人公が起こした「事件」について自白することを求められ、あやふやな記憶を辿りながら回想していくという流れからストーリーが展開される。この場面から始まった時には多くのプレイヤーが頭に???を浮かべていただろう。しかし、なぜこの場面から始めなければいけなかったのかという疑問はストーリー(回想)が進むにつれ見事晴れることになる。全て説明するのは面倒なので省くが、この導入は怪盗団の作中最大のピンチを乗り越えるトリックへの布石でもあったのだ。正直、このトリックの有無がストーリー全体の評価に大きな影響を持つといってよいほどよく練られたものだった。何が起こったのか理解した時、思わず「うおぉぉ...」と唸ってしまった。異世界と現実を自由に行き来する怪盗団ならではのトリック、というのもポイントが高い。回想から物語を始めるフィクションは少なくないが、ここまで回想という形式に重要な意味を持たせることができている作品は多くないと思う。この構成は評価に値する。

2. 徐々に仲間達と絆を深めていく展開

ここに関しては王道であるが、主人公をはじめとする怪盗団のメンバーの絆が物語が進むごとに深まる展開は見てて嬉しかった。怪盗団のメンバーは社会に理不尽なレッテルを貼られたりなどして居場所が無い孤独な人間の集まりであり、共通の目的意識からいつのまにか居場所ができていくのはプレイヤー側からしても微笑ましいのではないだろうか。主人公が少年院に送られた際に彼を解放することに尽力した怪盗メンバーを見て、「良い仲間を持ったなぁ」など思ったものだ。彼らほど露骨では無いが、特定の社会組織に適応できず居場所がない経験をしている僕はかなり感情移入することできた。

3. 正義というテーマの表現

この作品には多くのテーマが潜んでいるが、その中でも再三に渡って表現されているのが「正義」である。このような主観的なテーマを表現するのは結構難しい。正直、この作品の表現も完璧だったとは思わない。今まで色々なフィクションを見たり読んだりしてきたが、多くは主人公たちが無自覚なポジショントークを正義として掲げてストーリー上の悪役に押し付け、数の暴力で圧倒するような展開が多かったように思える(アニメを見たところ、ペルソナ4はそのような感じだったかのように思える)。しかし、今作では怪盗団が最初に正義と信じたものが揺らいだりする展開が何回かあったりなど、彼らのいう正義は良くも悪くも「自分達の正義」であり、自分達と似た境遇の人を救ってあげたいというある種の個人的な理由を自覚的に掲げていた節もある。正義を行使するというとは何かしらのポジションを取るということであり、そのことは多くの人が思うほど綺麗なものではないのかもしれない。そのような点を少しは表現できてるな、と思っていたので一安心した。そのことに全く触れない勧善懲悪モノのストーリーだったらここまで楽しめなかっただろうし、途中から冷めてしまっていたかもしれない。

 

・映像やBGMなど

ペルソナシリーズをプレイするのは今作が初めてなので過去作との比較はできないのだが、とにかく全てがスタイリッシュに作られているなというのが大まかな印象だった。

www.youtube.com

このPVを見れば少しはP5のかっこよさが伝わってくれるかな?僕が特に気に入ったのは予告状を出した後の警戒度MAX状態のパレス(人間の強い欲望によって生み出された異世界)内で流れる"Life will change"というBGMだ。とにかくカッコいい。

 

・コープシステム

コープシステムとは、強制イベントがない時間帯に登場人物とのコープ(協力関係)を深めることができるシステムである。コープは10段階存在し、各段階ごとにショートストーリーが発生する。

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ちなみに女性キャラのコープは進めると恋人になれたりするので中々面白い。僕の推しは杏と真ちゃん。どうなのおばさんとゴニョゴニョできる展開がないのが少し残念。ちなみに僕はどうなのおばさんと結婚して真ちゃんと一つ屋根の下で暮らしながら杏と高校時代を過ごしたかった。これはどうやらペルソナの伝統的なシステムでもあるらしく、本編では描かれにくい各登場人物に焦点を置いたストーリーを補完するためにある。怪盗団メンバーのコープは竜司以外はMAX(竜司のコープから得られるスキルがペルソナのレベル上げを阻害するため)にし、サブキャラも川上貞代、武見妙、佐倉惣治郎、岩井宗久はMAXにした。1週目にしては結構頑張ったと思う。サブキャラの女の子達も可愛かったのだが、無理やりストーリーに出てきた感があって興味が湧かなかった。この中で特に気に入ったのは喜多川祐介、佐倉惣治郎&双葉コンビ、武見妙コープかな。べっきぃこと川上先生のコープも好きだった。何気にサブの年増キャラ達がいい味出してた。

 

・これからへの期待

基本的には不満点なのだが、ペルソナシリーズ恒例の完全版が出るかもしれないという期待も込めてこのような項目になった。 まず、作中で回収されていない謎や伏線っぽいものなどが幾つかある。個人的に気になっているのが新島冴の「全て仕組まれていたような〜」という台詞や双葉の生物学上の父親のことなど。ここらとかもうちょい掘り下げることもできるんじゃないかな?あとは主人公と対を成す悪役の明智五郎についてかな。

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主人公達を騙すために怪盗団に一時期入団したりと、怪盗団に最も近い悪役だった明智さん。でも結局最期は獅童パレスにいた自分のシャドウに殺されるという展開。何件も殺人を犯し、歪みに歪んだ悪役として登場したのに最期はあっさり改心しかけていたり、イマイチ悪役としての魅力がなかったように思える。主人公を「前歴持ちの屋根裏に住んでるゴミ」という小学生のような言葉で罵倒した辺りからの小物感は擁護のしようがない(思わず吹き出してしまった)。いきなり獅童が父親だとバラしてきたり、この人に関する謎の解明は随分駆け足だったように感じる。死んだ後も清々しいぐらい話題に上がらなかったし、まだまだ掘り下げてあげればよかったのになと思う。ネットでは11月から12月の展開が早すぎるという声もあるらしいが、この人に関する展開が竜頭蛇尾だったというのが主な理由でもあるのでないのかと思う。こういった点も完全版(もし出るのならば)で補足してくれると嬉しいな。

 

まとめ

ペルソナ5という作品への満足度はかなり高い。90時間かかった大作ではあったが、この時間は有意義なものであった。ペルソナ5クリア済み人たちはぜひ色々と語りましょう。大学だとFPSをやってる人が周りにいないので、ゲームはこれからもRPGが中心になると思う。これからは先輩のオタクに勧められた「閃の軌跡シリーズ」をやろうと思っている。その他、アトラス作で来年二月に発売される予定の「キャサリン・フルボディ」も楽しみだ。そして何より、ペルソナ5の完全版やペルソナ6の発表があることも願っている。

 

では、次の記事でお会いしましょう。

何か、足りない。

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ずっと、活力がある人でありたかった。最近、何事に対してもやる気が足りていない。僕の周りの何人かはやる気を生み出すものをやっていきと呼んでたりする。そう、やっていきが足りないのだ。

小さい頃には夢があった。考古学者だったはずだ。恐竜の図鑑を眺めて恐竜の名前を覚え、親や親戚に自慢してた。その後も何度か夢が変わったが、何かをやってみたいという気持ちは常にあった。その何かが好きだったというのと別に、それになりたいなって夢見てる自分が心地よかったっていうのもあるのだろう。人間みんな、何かを目指して一心不乱に努力し、上手くいっているときは達成感と自己肯定感に包まれるものだ。それは空元気的な何かでいつしか終わるものかもしれないが、無くなったらまた別のものを探せばいい。若いならまだ社会が守ってくれる、はず。知らんけど。

成長するにつれ、自分というものを自覚するようになった。18歳、もう後一ヶ月で19歳になる。これぐらいの歳になると自分には何ができて、何ができないのかが分かってくる。もちろんまだ社会生活なんてしたことがないので多少の誤差はあるだろう。ただ、何となく自分が収まるべき場所が見えてくる。下限は知らないが、上限を見誤ってはいないだろう。

最近、社会不適合っぽい人たちの文章を読む機会が増えた。こういう人たちって文章読んでて、頭いいんだなぁって思う。多分やる気を出したら色んなことができるのだろう、やらないだけで。彼らは彼らで、もっとダメ人間になれたらよかった、などと言ってるらしい。こういう人たちみたいに、いっその事社会とほとんど縁を切れればいいのにと思うこともある。しかしそれも彼らほどは頭がよくない自分には少し難しい。

自分はありがたいことに色んな経験をした/させてもらった。他人が羨むような経験をしたことも多い、はず。そのおかげで人生でやりたいことは結構やった。強いていうなら所謂異性が絡んだ青春のせの字も体験できていないことだが、僕のスペックや環境上それは無理だっていうことはもう何年か前から悟ってる。最近先輩と恋愛について話した。その先輩は僕と同じで青春ってものなんかほとんど体験せずここまで生きてきた、と思う。違っていたら申し訳ない。多分違っていないだろうけど。

 

「青春って、皆が面白いって言ってるけど見る機会を逃しちゃった映画みたいだよね」

「その言い方好きだな、今度から使わせてもらう」

 

こんな夢のない話をした。ただ、これは中々的を射ている表現だ。よくtwitterなどでは青春がしたいなどということを言っているが、これはもはや諦観に満ちた鳴き声のようなものだ。無職の「お金がない!」とは緊急度が異なる。

話が少々脱線したが、何が言いたいのかというと、自分は人生でやりたいことはほぼやりきったということだ。

では、何が今の生きるモチベーションかというと、今の生活水準を保ちたいということだけだ。少し前まではこれで十分だなって思えていた。適度にお金を稼ぎながら趣味に熱中して、何となく生きていればそれで満たされるだろうと思っていた。一般人の範疇ではあるが、少なくても自分のことをただの無能だとは考えていない。何かをやればそれなりの結果は出せる、はず。頑張って親父の1/4(うちは四人家族なので。僕と弟の学費が結構かかっているので必要なのは実質それ以下かもしれない。)ぐらいの年収を稼いで、一人でもいいから安らかに死を迎えたいなって思ってた。そんなこんなで早く人生終わって欲しいんだよね、って冗談混じりに人に話したら

「お前は恵まれている」「甘えるな」「いつか痛い目見る」

という趣旨のことを言われた。確かにそうなのかもしれない。ただ、苦しい思いをしながら日々生きることに必死になるような生き方は嫌だな。

今もその考えの大筋は変わっていないのだが、おそらくそれだと途中で虚しくなってしまうし、どこかで寂しくなってしまうのだろうなと思い始めたのが最近のことだ。大学デビューを果たしてる友人の楽しそうな話なんかを聞いていると、

「楽しそうに日常を語る友人と特に語ることもなく話を聞く僕」という構図がずっと続くんだろうな、なんてことも考えるし、もう既にかなり虚しい。上に書いた社会不適合の人たちもそういった虚しさを感じることが多いらしい。

そんな意識を変えるためにも「やっていき」が必要。空元気で騒いでるのは嫌だなって思っているし、ダサいと思う。ただ当の本人たちが楽しめて、後にそれが空元気であったということに気づくという一連流れ自体は健全で、ある意味羨ましいものなのかもしれないと考えるようにもなった。そんな経験も、こういう人たちにとっては青春の一ページになるのかもしれないし。そうやって、「昔は若かったなぁ、ハハハ」なんて言いながら笑えるのは良いことだ。自分自身がこうなることはないが、こういったエネルギーがあったらいいなって思う。

jinkunblog.hatenablog.com

もしこの記事に書いた非日常が来なくても、せめてそれぐらいは欲しいなって思う。アニメとゲームもいつか飽きるしね。そんなこんなで、やっていき、募集中です。自分でも頑張って探すけどもね。非日常かやっていき、どっちか道端に落ちてないかな。

そんなことを思いながら、何本目か分からないジンジャーエールを買いましたとさ。

 

では、次の記事でお会いしましょう。

資本主義経済、終わるらしい

最近よく資本主義経済が終わる、みたいなことを耳にする。耳にするというより、ネットで見かける。それらの記事を読む限り、競争によって利潤を追求し、その利潤(お金)によって資源が社会に分配される経済体制のことを言っているのだろう。僕の知り合いのプチ有名人もそんなことを言って起業していた。

そのような記事やFBの投稿を読む限り、

 

A: 資本主義経済に代わり、価値主義経済が生まれる

B: AI(人工知能)が人の仕事を奪い、資本主義経済を終わらせる

 

みたいに二種類の論調に分かれている気がする。ただ僕が考えでは、この二つの要因が経済の構造を少し変えることがあっても資本主義の概念を受け継いだ経済にとって代わるものには今のところなり得ないんじゃないかなって思う。なので、下にAとBに関しての僕なりの考え方を書いていきたい。興味はあるけど僕の論理展開があんまり理解できなかったり、違う意見がある人はぜひ教えて欲しい。DMやコメント、待ってます。

 

 Aについて

正直なところ、価値主義経済の定義が僕の中で断片的にしか固まっていない。ただ、価値主義経済という言葉を使い始めた界隈の大物であるメタップス・佐藤航陽氏の記事を読む限り、彼のいう価値主義経済っていうのはポスト資本主義経済の経済システムっていうほどのものでもない気がする。余談だが、メタップス社がリリースしたタイムバンクというアプリでは高校時代に小金を稼がせてもらった。ありがとうございます。

ポスト資本主義社会を考えてみた:『価値主義』と『情報経済』 | 佐藤航陽のブログ

 

彼の価値経済に関する主張を簡単にまとめると、

1. お金は価値の媒介として誕生した。

2. 歴史上の革命によって自由と平等の概念が一般的なものとなり、産業革命によって資本の有無が重要な意味を持つ経済に変わった。

3. この二つにより、もともとは価値の媒介でしかなかったお金の目的化が進んだ。

4. ITの導入によって価値の交換がお金以外のものでも行われるようになる(仮想通貨など)。又、インターネットによって生産者と消費者のマッチングが容易になる。

5. 4に示されていることにより、商品の市場においての有利性よりも、その商品の「価値」を最大化するような動きが中心になる。

6. 今実在しているお金(国が発行してるやつ)から「価値」に人々の注目が集まり、お金を追い求める経済体制ではなくなる。さらにお金に換算されてこなかったものが重要視される。これが価値主義経済である。

 

と、こんなものである。では、この流れに沿って僕の考えを述べていく。

 

1~3の論理展開に関しては異論はない。この手の主張はこの記事特有のものでもないし、今の資本主義経済に苦言を呈す人が一定数存在するのはこのような背景があるからである。金融市場を利用してお金を稼ぐ人が「悪」として批判されるのはこのような流れがあるからだろう。リーマンショックにおけるサブプライムローン問題なんて、お金の目的化が実体経済に悪影響を及ぼした最たる例である。しかしながら4以降の論理展開は少し飛躍していると思う。

4~5においては、決済の手段が多様化され、市場のマッチングが効率化されるということが主張されている。記事内で例として挙げているスーパーや卸売の例は分かりやすい。市場のマッチングが効率化されたことにより、売り方ではなく商品の質(記事内でいう「価値」)が今までよりも重要視されるという考え方も間違ってはいないと思う。しかし、次に6を見てみると、論理が飛躍している。

6においては、4~5において示された「価値」に注目が集まるという流れにより「資本」を代表するお金を追い求める経済体制ではなくなるというのが一つ目の主張である。これは正しく論理展開が為されていない。そもそも商品やサービス「価値」に注目が集まる理由として、佐藤氏は

a: 決済手段の多様化により、政府発行のお金だけが使われることがなくなる

b: 生産者と消費者のマッチングが容易になる

の二つを挙げた。しかし、この二つは「お金を追い求める経済体制ではなくなる」という結果には結びつかない。aにおいては、例として、

 

"それが国が発行する通貨なのか、企業が発行するポイントなのか、ビットコインのような暗号通貨なのか、はたまた価値の直接交換なのかは人によって違うでしょう。"

 

と述べられている。まず、「価値の直接交換」はほとんどの物に当てはまらない。当てはまらないからこそ、流動性のある貨幣というものを人間が生み出したのだから。仮想通貨などの例に関しても、価値の裏付けには実際のお金が使われているという点に留意しなければいけない。つまり、佐藤氏が例として挙げている「多様化された手段」の根源的な価値は政府発行のお金と連動しているのだ。だからこそ、仮想通貨などの決算手段が主流になっても、その価値を裏付けしているお金の重要性は衰えない、ゆえに「お金を追い求める経済体制ではなくなる」というのはまた別の話だと思う。お金の重要性が衰えない以上、お金を最大化する努力を社会の住人がやめることはないだろう。bにおいても、この結果は変わらない。いくら市場がインターネットによって効率化されて、商品やサービスの質や差別化(ここでいう「価値」)が重要となったとしても、その「価値」はお金によって裏付けされた決済手段によって取引されるため、結局お金の重要性というのは衰えない。むしろこれは資本主義的な経済を円滑に機能される要因とすら思える。

二つ目の主張である「お金に換算されてこなかったものが重要視される」という点も、今までの経済体制に含まれる要素と違うものだとは到底思えない。記事内では、Facebookが持つソーシャルグラフGoogleが持つ大量の情報には価値があるのに資本主義経済ではそれがないがしろにされているといった旨の主張が為されている。そもそもこれは時価総額というバリュエーションが存在する以上、ないがしろにされているとは思えない。更に記事内ではFacebookGoogleが持つ「価値」をソーシャルグラフや情報が生む収益によって裏付けしている。これって今の資本主義経済における物事のバリュエーション(この場合においては企業のバリュエーション)と何が違うのか全く分からない。

 

Aだけでもだいぶ長くなってしまった。要は何が言いたいのかというと、今一部の界隈で囁かれている、価値主義経済という考えが資本主義経済に取って代わるという論調に論理性を見出せないということである。IT技術やインターネットの発達により市場がもう少し効率化されるかもしれない、というのが関の山だろう。

 

 Bについて

AIが人の仕事を奪い、資本主義経済を終わらせるという話はいろんなところで耳にする。しかし僕が考える限り、話はここまで簡単ではないと思う。

そもそも経済とは、有限である資源を人々に分配する仕組みである。このような考えに基づくならば、

 

AIが人の仕事を奪う

労働する必要がなくなり、資本主義経済が終わる

 

という論調に素直には賛同できない。

最初の「AIが人の仕事を奪う」に関してはあまり異論がない。今ある全ての職がなくなるか否かというシンギュラリティに関する議論はまた別にあるが、自動化するのが簡単な職種の多くは淘汰されていくだろう。ただ、上に述べた通り、経済というものは資源を分配する必要がある限り存在する。経済システムには色んな種類があり、資本主義経済はそのうちの一つだ。そこで僕は、例えAIが今ある労働を全て請け負うことになったとしても、資本主義経済の考えは消えないのではないか思う。

まず、AIによって人間が働かなくても良くなった未来というのを想像してみよう。人間は生きるためのツール(衣食住や医療)、それに加えて娯楽というものを欲しがる。今経済に流通しているサービスのほとんどはこれらに関連するものか、これらを得るために必要な「お金」自体を増やすものである。今までの経済はこのようなサービスを人間自らが提供し、消費者から流動性を持った「価値」そのものになるお金を受け取っていて、そのお金が経済における資源分配の指標であったのだ。これがいわゆる労働に対して対価をもらうという行為である。しかし、AIが発達し人間自らがこのようなサービスを提供することがなくなった場合は、また新たな資源分配におけるルールが必要となる。そして僕は、このルールが結局のところ資本主義経済に似たものになると思う。

このルールというものは、究極的には人間に序列がつけられれば何でもいいのである。序列がつけば、それ通りに限られた資源を分配していけばいい。上にも述べたが、貨幣の所有量が現在の経済での資源分配の序列であり、指標である。

これの概念的な考えとしては

1. 資源分配の指標のため、人々の間に平和的に序列を付ける競争ルールを設定する

2. 自分に資源が多く行きわたるよう、人間は1にて定められた競争ルールにおいて優位に立とうとする。

3. 優位に立つため、競争ルールの知識を学び、鍛錬を行う。

4. あらら、これって労働じゃないですか?

 

例えば、この序列を付けるルールをポーカーに設定したとしよう。突拍子もない発想に思えるが、先ほども述べた通り、このルールは人に序列が付きさえすればなんでもよい。このポーカーで経済における序列が決まる際、人間は現在と同じく自分になるべく資源が行きわたるように高い順位に位置しようとするだろう。そうするとどうだろうか?人間はポーカーで強くなるためにポーカーの知識を付け、ポーカーの鍛錬をするだろう。そのような努力を楽しめる人もそうでない人も、才能がある人もない人もいるだろう。

 

このように考えると、労働の概念が変わっただけで、最早このような努力は、現代の労働に近いものになると言っても過言ではない。

 

このような状況に陥らないためには、二つの条件がある。

 

1. そもそも資源が有限であると言う前提が無くなれば良い。要は、資源を無限に増やせればよい。

2. 人口を極端に減らし、資源を相対的に無限大とすればよい。

 

そもそも資源は有限である、という前提から始まっているのだからこの前提を崩すしかない。しかしこれがなくならない限り、労働の中身が変わっても資本主義経済というシステムは壊れない。よって、AIが人間に代わって仕事をする→資本主義経済が終わるという論理展開は少し短絡的ではないだろうか、というのが僕の主張である。

 

最後に

 思った以上に長い記事になってしまった。日本語も概念的説明も下手なので許して欲しい。このような話題の記事を読んでくれる人は限られてくるだろうけど、もし興味があるなら読んで感想を聞かせてもらいたい。勘違いしないでもらいたいのだが、この記事は決して資本主義経済を礼讃している訳ではない。むしろ社会に出たくない僕としては、極めて厄介な経済体制だなと思っている。一生寝て暮らしたい。例え寝てなかったとしても、ゆるキャン△みたいな日常を過ごしたい。

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 どうやら二期の制作が決定したらしい。心で号泣しました。こんな記事よりそっちの方が大事です。りんちゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん。嬉しくて嬉しくて...。

 

では、次の記事でお会いしましょう。

散歩、嫌いじゃない。

夜、よくキャンパスを一人で散歩することがある。入学前は夜のキャンパスはうるさそうだなという印象を持っていたが、流石に深夜となると人とはほとんど巡り合わない。夜に活動してる元気な人達はキャンパスの外側で酒を飲んだりタバコを吸っていたりするらしいので、夜のキャンパス内というのは存外人が少ない。高校で寮に入って以来、散歩というのは数少ない習慣の一つとなっている。高校時代は校舎の周りや、少し寮から離れた林道をよく散歩したものだ。熊やイノシシの目撃情報があったのが少し怖かったが。

散歩って意外と楽しいなと気付いたのは小学校の頃だ。僕の母がたの祖父母は静岡の浜松市に住んでいて、休みがある毎に遊びに行っていた。今ではその頻度は少なくなったが、年に一回は必ず行くようにしている。祖父母の家に泊まっている間、時折祖父に散歩に誘われることがあった。試しに付いていくと、星が東京とは比較にならないぐらい綺麗で、星空を見上げながら祖父が星座の話や宇宙の話をしてくれた。はしゃいでしまうような楽しさ、というわけではなかったが、なんとなく満ち足りた気持ちになれた。夜の、人が少ない街というのも悪くないなって思えた。

 

静かな夜のキャンパスで感じることは日によって違う。ある日は、自分の存在が世界に比べて普段よりも小さく思えたりする。自分は本当にちっぽけな存在で、世界って自分がいてもいなくても問題はないし、何も変わらないんだなぁなんて当たり前のことも今更自覚したりする。まあ別に、それ自体に悪い気は全くしないんだけどね。自分の影響力が強い世界なんて荷が重くていつか疲れるだろうし。またある日には、この空間は今この場所を認知している自分という存在のためにあるんだなぁ、なんてことも思ったりする。その日の気分によってバラバラだ。

日によっては音楽を聴きながら歩いたりもする。自分はイヤホンで音楽を聴きながら何かをすることが多いので、曲が記憶と結びついてたりすることが多い。気に入った曲は短期間にヘビロテするので、それぞれの曲がそれぞれの時期の記憶と重なっているなんてこともあったりする。懐かしい曲を聴きながら、あの時はこんなことがあって、こんなことを考えてたなと思い出すのが案外楽しかったりする。散歩をしながらだと、そんな思考も捗るのだ。

 

散歩というのは、物理的な時間と自分の中にある時間の流れを合わせるという作業にも役に立つ。これを感覚的に理解してくれる人がいるかどうかは知らないが。

とりわけ寮にいる時というのはルーティンワークや単純につまらない時間が多い。そういう時は物理的な時間だけが流れて、自分の中の時間が全く進んでいないような感覚に陥る。日々の退屈さや虚無感というのはこういった要素からも発生しているのかもしれない。ただ、散歩をすると何となく自分の中の時間が進んでくれているような感じがする。そろそろ帰ろうかって時には、自分の中の時間が物理的な時間に追いつき、歩幅を合わせて進んでいるかのように思える。それだけでも、外に出てみて良かったなと思える。

 

別に何かを言いたい記事というわけではない。ただ、「物理的な時間だけが流れて、自分の中の時間が全く進んでいないような感覚」が理解できるのならば、散歩というのは悪くない選択肢だよっていうのは提示しておきたい。

 

ちなみに、今日はうさぎを見つけたよ。(写真は明るく写っているが、実際はかなり暗い)

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では次の記事でお会いしましょう。

非日常が欲しい。

大学が始まって数週間、とりわけペルソナというゲームを始めてから、高校の時にずっと考えていたことを再び考えるようになった。

「非日常が欲しい」

とりわけ受験期間初期にこのことを考えていた気がする。これは自分の人生全般に言えることなのだが、自分の人生はとにかく感動が少ない。そもそも感動って言葉が一体どれを指すのかすらあんまり分からないというのが正直なところではある。色々と衝撃を受けた体験はあるが、それはおそらく世間一般でいう感動とは違うと思うし、その衝撃的な体験が自分の人格形成や人生そのものに大きな影響を及ぼしたかと問われると更に数が限られてくる。今はそんな感動やワクワクを与えてくれる非日常がとても欲しい。

 

イギリスから帰国した時に入った小学校は本当に嫌いだった。本当に色んな人がいて、社会が本当にこんな感じだったら本当に嫌だなっていうのを痛感していた。まあ実際にもそうなんだけどね。いきなり同級生が授業中に彫刻刀を振り回しながら喧嘩しだしたり、まだ自分を守る術を今ほど知らなかった当時の自分は命の危険を感じたことが多々あった。これはかなり衝撃的な体験ではあったが、自分が望むような非日常ではなかった。最終学年になり、いわゆる「受験組」で、学校が終わったらそそくさと塾に行く自分を同級生の大半は快く思っていなかったと思う。そのせいで同級生や教師からもイヤミなことを度々言われていたし、本当に居心地が悪かったのを覚えている。友達は数人いたが、受験のストレスでほとんどの友達が嫌な奴らになっていた。変な八つ当たりみたいなことを言われたりして、もうこんな奴らいいや、って思っていたのもぼんやりと憶えている。結局小学生時代の友達とは今ではほとんど縁がないし、今どこで何をしているのかも興味がない。

中学校は東京にある私立とインターナショナルスクールに通った。この時期は人生の中では一番楽しかった時期だと思う。今でも定期的に話したり会っている友達の多くは、学校の内外問わず、この期間にできたものだ。当時は仲が良かったが、疎遠になってしまった人も多くいるし、僕のことをあんまり憶えていない人もその反面多いと思う。数ヶ月前、中学の時にリアルでもSNSでも結構喋ってた人と久しぶりに喋ったのだが、その人にとって自分は過去の人になったんだなぁって思うような会話しかできなかった覚えがある。おそらくその会話をしたこともその人は既に忘れているだろう。そんなこともあるので、世間的には友達の数は少ない方だとは思うが、今でも繋がっている人たちとの縁はこれからも大事にしたいと思っている。

高校は、ひたすらに面白くなかった。入った自分が悪いってことで割り切っていたが、それにしても何もかもが自分と合わなかった。日本で最大規模の高校生向けビジネスコンテストに優勝したりなど多くのことをしたが、今思えば少しでも学校から離れたいという欲求もあったのだろう。交友関係に関しては、同級生と先輩のわずかとしかまともに喋っていなかったと思う。よかったことといえば、彼らに会えたことぐらいかと。思い出すと陰鬱とした気分になるのであまり長くは書かないが、特定の環境に適応できないことへの苦しさが自覚としてこの時期から出てきた気がするし、今でもその感覚が尾を引いて、かなりの虚無感に襲われることがある。

こうやって思い返せば、自分の人生にも純粋に楽しいと思える期間があったし、今でも友人とくだらないことを喋ったり、本や漫画を読んだり、ゲームをしたりと楽しい時間は存在する。ただ、海外の大学に進学し比較的そのような時間も取れなくなってきた今、とても日々が退屈に感じる。そしてそんな時に思うのだ、「非日常が欲しい」と。

 

冒頭で名前を出したペルソナというゲームは正に主人公達が非日常に飛び込んで行くゲームだ。このRPGは舞台が東京で自分の生活圏外にもかなり近いところで物語が展開されていることもあり、ただのファンタジーゲームより親近感が持てる。色んなところが細かく再現されており、高校の先輩と聖地巡礼に行った時にはかなり感心した。このゲームは主人公が何かの強制的な力によって、無理やり非日常に放り出されることから物語が始まる。最初は戸惑いながら物語は進行するのだが、いつのまにかそこに人が集まり、そのままその非日常が進んで行く。そんなイベントが実はかなりの憧れなのだ。ペルソナを起動するたびに、そろそろ俺もペルソナに目覚めてほしいななんて思ったりする。(このゲームにも色々と思うことがあるので、それはクリア後に詳しく記事に書きたいと思っている)

大学は退屈すぎる。何も起こらない。人生の主人公である自分を何かワクワクするような非日常に放り投げてくれる強制的な力は存在しない。大学を卒業し、自分が思い描くキャリアプランを得たとしても、それはおそらく非日常とは相反するものであろう。折木奉太郎にとっての千反田えるも、比企ヶ谷八幡にとっての平塚先生もここにはいない。そして自分でそれを血眼になって見つけ出そうという気概もない。八方塞がりだ。親にこのことは話したら、暇なんじゃない?と笑われたことがある。確かに、処理すべきタスクが多い時はそんなことを考えないのかもしれない。ただ、そのために自分をつまらないことで不必要に忙しくするのは本末転倒である。

 

だからこそ他力本願に願う。誰か、何か、自分に非日常を与えてくれる存在はないものだろうか。今日も明日も、そんなことを考えながら、僕は眠りにつくのだろう。

 

読み直したけど、深夜テンションで感情はき散らしジャーナルと化している。

では、次の記事でお会いしましょう。